外池論文について 和歌の解釈と論文の論旨

さて、先週の読書会で保留させていただいた、和歌の解釈です。
(6)a.海の底 沖つ白波 龍田山 いつか越えなむ 妹があたり見む
  「沖の白波が立つ、その立つという名の龍田山をいつ越えられることか。早く妻の家のあたりを見たいものだ」(『新潮日本古典集成』)

「海の底」は「沖」を導く枕詞、「沖つ白波」は「たつ」を導く序詞で、ここまでは内容的には無意味のようです(この歌は山中でよまれたものなので)。
 このように「越える」の目的語「海の底沖つ白波龍田山」が(無駄に?)冗長なので、頭に置かざるをえないのだと思います。

(6)b.たまさかに 我が見し人を 如何ならむ 縁をもちてか また一目見む
  「はからずも私が見かけた人よ、その人を、どんなきっかけでまた一目見ることができようか」(同書)
  「なんとかして会いたい」ではなく、「どうやって会えるだろうか(いや無理だ)」という修辞疑問(反語)と解すべきようです。

 この例では疑問詞「如何なる」が連体句中に納まっていますが、渡辺論文では「如何ならむ 縁をもちてか」全体をWH句と見なしているのだと思います。「たまさかに我が見し人」と、やはり修飾語がついた長い目的語ですし、意味的には主題に相当する要素ともいえるので(上記の口語訳のように、目的語を表示する格助詞というより詠嘆の間投助詞と解するべきかもしれません)、やはり文頭に置くのが自然ですよね。

 やはり、韻律や情報構造を優先して語順を入れ替えることがかなり自由であるという点で、たとえWH句が左方移動される傾向があるとしても、英語のようなきつい制約ではなかった、と見るべきようですね。

*****
 外池論文は左方wh移動を支持しない。では、「〜が・の」の主語が「〜か」に圧倒的に後続する事実をどう扱うか?答えは係り結びである。係り結びについて外池は野村論文の注釈的二文連置説を採る。つまり「〜か」という疑問文の後にその疑問文を発する契機となった事態を連体形で並置するというもので、現代語で言えば「何処で吹くのか、不思議な笛だ」のようなものであるといえる。渡辺説は係り結びを移動で説明する試みと取れなくもないが、次のようなものは節のpied-pipingとは考えられず、移動では説明できない係り結びもある。
(14) 愛しきやし誰が障ふれかも玉ほこの道見忘れて君が来まさぬ(2380)