近藤泰弘(2000)について

近藤泰弘(2000)『日本語記述文法の理論』くろしお出版,329-254ページ)に目を通したので簡単に報告します。上掲書では、準体節(末尾が用言の連体形で、全体として名詞節となっているもの)を次のように分類しています。


①同格準体 (=石垣「作用性名詞句」) (1)この翁は[かぐや姫のやもめなる]をなげかしければ(竹取物語) (2)[かかる御ありきしたまふ]、いとあしきことなり(大和物語) ⇒ 事態(〜こと)を表す。

②同一名詞準体 (=石垣「形状性名詞句」) a)同一名詞消去型 (3)[旧き本にすでにある]をば、今さらに詳(アキ)らかに明(アカ)め、 [旧き本になき]所を、斯(ソ)の文に具(トモ)に載せたり ⇒ 後件との対句から、「(所が)旧き本にすでにある(所)」が消去されていると考えられる

b)同一名詞追加型 (=黒田「の-関係節/left-headed relative clause」) (4)[頭白き女の[水汲める]]なむ、前よりあやしきやうなる家にいりける(大和) (5)[蘭の花の[いとおもしろき]]をもたりたまへたりけるを(大和)

c)同一名詞残存型 (=黒田「主部内在関係節」)

(6)[かの承香殿の前の松に雪のふりかかりたりける]を折りて(大和)

このうち②b)が、問題の「の-関係節」です。「の」は、やはり節末ではなく、「頭白き女の」「蘭の花の」についている「の」のことを指しています。「一旦消去された連体部の同一名詞が、助詞「の」を伴って現れるもの」(近藤340ページ)と規定されています。つまり、次のような段階を想定しているようです。

[頭白き女の水汲める]   (=②c)同一名詞残存型) ↓ [φ水汲める]       (=②a)同一名詞消去型) ↓ [頭白き女の[φ水汲める]](=②b)同一名詞残存型)

「頭白き女」が左側に追加されるので、黒田は left-headed だといっているようです。 ところで、「頭白き女の」は一見すると「汲める」の主語のようで、(6)の「雪の-ふりかかりたりける」と同様に感じられます。つまり②b)と②c)の違いは非常に微妙なものに見えます。黒田が“「の-関係節」と 「主部内在関係節」の峻別が重要(309ページ下)”と述べているも、まさにこの点です。

近藤は(4)(5)の「の」は主格ではなく属格と見なしています。その根拠として、以下のようなことを挙げています。 ・「の」が目的語を表すこともある。

(7)むかし、おとこありけり。[人のむすめの[かしづく]]、いかでこのおとこに物いわむと思けり。(伊勢物語) ⇒“昔、男がいた。ある人の娘で大事に育てていたの(=娘)が何とかこの男と結婚したいと思っていた。”

・②b)は奈良時代万葉集宣命)にも用例が見られるが、②b)は平安以降に現れる

・現代語では、②b)に相当する表現はどんな文脈でも現れるが、②c)は一定の条件(時間的・場所的に密接な関係にある)を必要とする

(8) ②b)[みかんの[皿の上にあるの]]はきのうぼくが買ってきたのだ。 (9)?②c)[みかんが皿の上にあるの]はきのうぼくが買ってきたのだ。 (10)②c)[みかんが皿の上にあるの]を取って食べた。 ⇒ (10)は時間的に連続した事態なので自然だが、(9)は不自然。

(8)は意味的条件に関係なく適格。

* * * 以上、なかなかややこしい話で(そのため、木曜に斜め読みしただけでは把握できませんでした)、正直なところ②b)と②c)の決定的違いの根拠をまだ今一つ掴みきれていませんが、ご報告まで。