日本語の受け身文 原田論文に思うこと

『ガイドブック日本語文法史』 第4章
1.上代
 助動詞「(ら)る」に加えて、「ら(ゆ)」も用いられた。
(1) か行けば人に厭はえかく行けば人に憎まえ(万葉804)

2.日本語受動文のタイポロジー−直接受動文と間接受動文
(2) ありがたきもの。舅にほめらるる婿。また姑に思はるる嫁の君。
(3) 今は野山し近ければ春は霞にたなびかれ(古今和歌集1003、長歌
(3)の後続部分は次の通り。
(3') 夏は空蝉 鳴きくらし 秋は時雨に 袖をかし 冬は霜にぞ せめらるる
分からないのは「夏は空蝉なきくらし」。空蝉が鳴く、なのか、私が空蝉のようになく、なのか?

3.非情物の受身
 古典語において、「非情物ガ+非情物ニ+〜られる」というタイプは存在したが、「非情物ガ+有情物ニ+〜られる」というタイプは存在しなかった。後者は、近代に入って欧文の直訳において「によって」という形が作り出されことによる。
 非情物主語の受動文は非固有のものと説かれることもあったが、(4), (5)に示したように、存在しなかったわけではない(特に和歌や漢文訓読文など)。古典語に存在しなかったは、「非情物ガ+有情物ニ+〜られる」のタイプであり、これは西洋語の翻訳が日本語の用法を拡張させたものである。
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 昨日迷惑受身の初期例として先生にあげていただいたものを早速原典に
当たりました。
 小学館の日本古典文学全集(S48年版)、第9巻、315ページです。

かつは思ひやるここちもいとあわれなり。よろづ書きて、「霞にたちこめられて、
筆の立ちどもしられねばあやし」とあるも、げにとおぼえたり。

大意 いとし子を手放す母親の心中を察すると、とてもしんみりした気持ちになる。
いろいろ書き連ねた末に、「霞に立ちこめられたように目が涙でくもり、
筆をおろす所もわからぬありさまゆえ、見苦しい手紙になってしまいました」
とあるのも、もっともなことだと思われた。

手紙を書くという目的からすると確かに「迷惑」なのかもしれませんが、
この例を迷惑受身とするのは多少無理があるように思いました。

 あと、原田論文の(67)ですが、ネットの解釈を見ると、「空蝉のように
(詠み手が)泣き」としていました。漢字表記の違い(泣くと鳴く)が
多少気になりますが、「(私は)夏は空蝉鳴きくらし」で、音形のない
主題「私は」と空蝉がcoindexされて、同一指示ということなのでしょうか?
私には先生の解釈、「夏は [空蝉鳴き] 暮らし」が自然と思えます。

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 原田論文(45)で主部内在関係節とされているものですが、
小学館古典文学全集に興味深い注釈がありました。

「れ」は受身とすると、無生物を主語とする受身の言い方はなかったと
いわれる点で、例外となる。ただし、硯の中に髪が入った状態で、
つい墨を磨ってしまったの意で、自発と解こうとする考えもある。

 原田先生は論文4節の直前で、上の注釈に反論していますね。
私も自発はあまりにも無理があると思いました。磨る、は意図的
行為ですから、自発は原理的にあり得ないと思われます。