メントライン氏によるyoutubeチャンネル。
西田知己『日本語と道徳 本心・正直・誠実・智恵はいつ生まれたか』
p. 14
現代語の場合本音とか本物といったときの「本」は、真実であることをさしている。それに対して、江戸時代に先立つ鎌倉・室町・戦国時代といった中世社会で使われていた「本心」とは、ひと言でいえば、もとの心という意味だった。人の心や体に何らかの異変が生じたときに、そうなる以前の心身の状態をあらわした。
マライ・メントラインほか『いまどきのドイツと日本』
対談本が著者にとってお手軽なのは想像できるが、章ごとの担当にでもしてまとめてほしかった。あと、参考文献をもう少し示して欲しい。
p. 80
(ドイツで腕を上げるポーズを忌避することについて)「上げませんね-。授業なら、少し腕を曲げたまま、あるいは机に肘をついたまま、人差し指を立てたりします。どうしても発言したいときは、指をパチンとならして先生の注意をひいたり。」
p. 86
…そこであるドイツの青年が解説したんです。「政治って堅苦しいものじゃなくて、家から一歩外に出たら、全部『政治』だよ。学校で生徒会長を決めるための投票をするでしょ。それも立派な『政治』。むしろ、日常生活に関わることで『政治』的じゃないことなんで、一つもないんだ」と。
p. 96
ふと思い出したんですけど、日本の高校生活で衝撃を覚えたことの一つが、同級生同士を「お友達」と呼ばせる習慣でした。「えっ」と思いましたよね。「お友達の皆さん」って、「いや、同級生だけど、友達かどうかははまた別の話じゃない?」と。
世の中、いろんな付き合い、いろんな関係性があるわけじゃないですか。学校に限らず社会でも、友達もいればライバルもいるし、敵もいるかもしれません。ドイツでもイジメはありますしね。でも、そういった多様な関係を全部ひっくるめて「お友達のみなさん」と決めつけてしまう感覚。多分、日本人には慣れ親しみすぎてあまり何も感じないかもしれませんけれど、日本語がベースでないと、そういう細かいところも奇妙に感じてしまうんですよね。
→この点は違和感あり。保育園、幼稚園で「お友達」とするのはよく聞くが、高校でもやるのか、と。関東と関西の違い?
大学入試英作文の参考書 和文英訳編
大学入試英作文の参考書で最良なのは、やはり英標だと思う。日本語の問題文の文章の質が高く、英訳の解答例もきれいな英語だと思う。AIの時代になっても、良いものは良いことを示す適例だと思う。
『大学入試 英作文バイブル 和文英訳編 解いて覚える必修英文100』は、英語解答例はごく普通のレベルと見た。日本語問題文があまり面白くなく、悪い意味で刺激的になってしまっている。間接的な形で偏った見方が形成されるようになっていないか。
『実戦編 英作文のトレーニング 改訂版』は、英語解答例はごく普通、日本語問題文もごく普通の無難な参考書であると思う。
自由英作文については稿を改めたい。
森本あんり・渡辺靖『キリスト教ナショナリズム 不穏なアメリカの変貌』
日本の若者が内向きであるという言説がまかり通るが、自民党の政治化は自らのたこつぼに入り込んで、正に内向きだろう。前出の言説がたこつぼ化を憂慮しての言説であるなら、まず隗より始めよだろう。
日本社会に特徴的なたこつぼ化とは違った文脈で、アメリカ人もまた内向きである。ただこちらは世界の重要な出来事は全てアメリカで起きている、という自国中心主義の結果である。悪くいえば、夜郎自大。その視点を得ると、著者たちの次の言明が良く理解できる。
p. 74
もう一つ、アメリカの教会は経済的に自立しているせいか、思想的にも自己満足的で、自分たちが外からどんなふうに見えているかに関心がありません。先ほど紹介したブラッド・オオニシは、オックスフォード大学で神学を学び、最終的に博士号 (Ph.D) を取得しています。自分がキリスト教ナショナリズムから離脱できたのは、海外留学を通じて神学を学び、自らの信仰を批判的に見つめる視点を得たからだと語っています。自国を外から見るという経験を、アメリカ人にもっとしてもらいたいですね。
p. 104
はい。アメリカでは一般的に、若い世代ほど世俗化が進む傾向があります。それに加えて、インターネットやSNSを通じて、世界には自分たちとは異なるライフスタイルを送る人々が数多く存在し、彼らのやり方にもそれなりの合理性や魅力があると感じるようになっています。
実際に、留学生や海外ルーツの同僚との交流、あるいは海外旅行などを通じて視野を広げることで、自分たちの価値観が絶対的なものではないと気づき始めている。そうした変化の中で、キリスト教ナショナリズムの台頭は、急速に進む世俗化や多様化への反動、いわば「最後のあがき」のようなもので、これ自体が大きなトレンドになるとは考えにくいです。
島田康行『「書ける」大学生に育てる AO入試現場からの提言』
斜め読みしただけだが、大学入試の小論文において出題傾向に経年的な変化がある、という報告が興味深かった。
p. 68~
「小論文」という語は昭和三〇年代後半以降、大学入試の科目として定着しはじめた後、明確な定義のないままに今日に至っている。実際の入試では「小論文」という科目名で、多様な内容の試験が行われており、中にはほとんど文章を書かせないような出題もあるのだが、一般的には、一定の条件下で、意見や主張など自分の考えを述べるというタイプの出題が想起されるだろう。
ところが近年、ある大学の「小論文」設問文に次のような「注意書き」が現れた。
…その要因を六〇〇字以内でまとめなさい。あなたの考えを尋ねているのではありません。文章からわかることのみ書くこと。
(以下略)
考えを書け、という指示だと感想文になってしまうのだろうか。
スピリチュアリズムとナショナリズム
藤倉善郎(編著)、黒猫ドラネコほか(著)(2026)『スピリチュアリズムとナショナリズム』扶桑社、東京。
スピリチュアリズムとナショナリズムという一見無関係な2つのものがどのようにつながっているのか、生長の家教祖とその関係者達に焦点を当てて解明しようとする本である。
グローバルな時代にローカルな動きが発現することはごくふつうのことであり、グローカルという言葉もあるほどだ。ナショナリズムはグローカルという言葉を解さない、あるいは知らない人たちが、グローバル性を否定して向かう先なのだろう。そしてそのような人たちは、日本、そして他国の例を見て分かるように極右に分類されることがほとんどである。日本の場合、参政党や維新の会がこの極右の例になるが、反知性主義とスピリチュアリズムが特徴である。グローカルを理解できない反知性主義、そしてナショナリズムの受け皿を、日本古来の八百万の神に求めて、その結果、科学の否定と自然との合一に向かう。このような、極右ハードコアな勢力よりもソフトなところにあるのが、自己啓発を通しての健康そして自然を大切にする態度だが、これも上掲書が明らかにするように、極右的な勢力につながっている。暗澹とする気分にさせてくれる本だ。
さて、反知性主義とスピリチュアリズムはまさしく英語教育界隈も毒していると思われる。言語学や社会学の理論に背を向け、勘とフィーリングでチェリーピッキングした言説をもとに主張を組み立てているように、筆者には思われる。