平安時代語における「行く」「来(く)」の使い分け

伊勢物語』筒井筒から
さりければ、かの女、やまとの方を見やりて、きみがあたり見つゝをゝらむいこま山雲なかくしそ雨はふるともといひて見いだすに、からうじてやまと人、こむといへり。よろこびてまつにたびたびすぎぬれば、きみこむといひし夜ごとにすぎぬればたのまぬものゝこひつゝぞぬるといひけれど、おとこすまずなりにけり。

「こむといへり」、「こむといひし」の「こむ」は現代語では「行く」の意味。平安時代には、「来」が現代標準語では見られない用法を持った。

 古川(1999)は、平安時代の「来る」を調査した。その結果、平安時代には、現代語と同じ「来る」と「行く」の使い分けが見られことが分かり、そして上に挙げた例のような、「特殊な」用法があった。この特殊用法の特徴は次の通り。

 データに見られる特徴は、特殊用法の「来」は、「来むと言(ふ)」という形を取るのが多いということ。つまり、助動詞「む」が付くことから、これから起こる移動を表す。また、「と言ふ」という形なので直接話法か間接話法か検討する必要がある。もし間接話法なら現代語の用法と同じであり、直接話法なら現代語では見られない用法と言うことになる。日本語において形態的には両者の区別は難しいとして、この点は追究していない。

 さて、特殊用法は、何が「特殊」なのかというと、現代語において「来る」は発話場所が到達点になるが、上の引用では、発話場所が到達点とは明らかに異なる点である。

 なぜこのような特殊用法が可能になったのか。平安時代当時の慣習から考えると、男は手紙で女に行くと伝えているはず。手紙を書いた時点では、発話場所が到達点になっていないが、女が手紙を読んだ時点を発話場所と捉えたら、発話場所が到達点となりうる。つまり、平安時代の「来」は、発話の場のとらえ方が現代語と異なり、発話場所と発話時に話し手が存在する場所と一致していなくてもよかった、と結論づけている。

 鹿児島方言に見られる「来る」の特殊用法が平安時代と同じ制約下にあるかどうかの見極めは今後の課題になり得ると思う。

古川俊雄 (1999) 「平安時代語における「行く」「来(く)」の使い分け」 広島大学教育学部紀要 第二部第48号227−234

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M氏からのリアクション
 手紙を読む女性の視点に立って、という説明が面白いですが、この立場では、特集用法の「来る」も通常用法と同様、視点の制約を受ける(単なる移動ではない)、ということになりますよね。
 以前先生がおっしゃっていた、鹿児島の事務所の人の会話(「いま来ていいですか?」でしたっけ)も、聞き手の視点に立った表現なのか、それとも視点には中立な「単なる移動」を表す表現なのか、気になるところです。
 また、「これから起こる移動」だけでなく「昨日(あなたの家に)来たとき……」のような過去の出来事を手紙で述べる、という例もあるかどうかについても興味があります。改めて論文を見てみたいと思います。