黒田成幸「主部内在関係節」よく分からない箇所

p. 32, l.-5の「節頭」とは?
(42) 記者が車から降りてきたのが電話した。
(44) あのとき記者が車から降りてきたのが電話したに違いない。
(44)の方が(42)よりも容認度が高いが、これは談話的な要因かもしれない。(44)の「が」はいわゆる総記の「が」であろう。
(46)~(48)で主部内在関係節は経験者格になれないというが、これらの例文は主部内在関係節でなくても容認度が万全とは言えない。「〜に」ではなく、「〜には」にすれば容認度が上がる。
(48') 女の学生が一人あそこに座っているのにはチェッコ語が話せる。
(52), (53) この文脈では従属節のテンスを「た」形にする、しないは随意的。両者に文法性の差はないと思われる。

p. 46, l. -7で(動詞)とあるのが意味不明である。
(80a)の文法性がほかのa文に比べて劣るのはなぜか?
(81a, b)は文法性に差があるとは感じられない。
(83)の「が」の位置がなぜここか?
(90)では、警察が捕まえたのはこそ泥だけであるという解釈が不可能なのではないか?
(91)も少々不自然。というのも「新宿の強盗」という修飾関係が奇異である。

p. 56ff
「みえる」は意味が希薄化しており、主語以外にテータ役割を与える役割を持たないと思われる。「みえる」に意味は似ているが意味の希薄化を起こしていない「に似ている」「にそっくりだ」は主語以外にもテータ役割を与える働きがあると思われる。

p.57ff
(119)-(124)のb例は文法性に差があると思われる。(119b), (122b)は文法性が高いが、他はかなり怪しい。また「似ている」と「そっくりだ」で差があると思われる(121b)と(124b)の違い。

(126)はどんな意味か。描きかけの絵がある、と思われ、その場にピカソがいる解釈は不可能と思うが。
(140)は文法性が低いと思われる。「毎朝」があって総称的な解釈になっていることが一因と思われる。(141-144)は実は対象の解釈かもしれない。

p. 63, l.2
「適格度がやや落ちるとはいえ」には不同意。逆ではないか?p. 64の下から4行目を併せて参照。
ちなみに「のに」は話し手の不満を表す。
(179)についてはp. 34を併せて参照。
(190)の「しまった」は逆接の読みを助ける。

p. 73の「関連性条件」とは何か?
(196)補節の例 (cf. p.77)
(200)関係節を伴う例

という理解でよいか?

(195), (197)はミニマルペアになっていないので比較が難しい。
(199)の「こと」は意味が希薄化しており、引用表現に準ずると見なせる。
(203)以降の例文は、a, bのいずれの例も文法性が低いと感じられる。ただし、(206a), (207a)は文法性が良いと感じられる。
(207) 文脈がおかしい。「そこにいるだろうと思ったのに」で「ばったり」(偶然性を示す)はおかしい。

私の判断
(210) *a, b
(211) a, *b((211b)は日本語として意味が分からない)
(212) a, b
(213) a, b
(214), (215) a, b

黒田理論で問題になるのは(211)か?

(216) それほど悪くない。補節に近いか?
(219) 複文にすることで文法性が改善しているというが、それほど改善していないのではないか?

p. 79「文法運用上の雑音」とは?Accessibility Hierarchyのことか?
(217') 警官が男がいじめている子供を保護した。
(218') 警官が見知らぬ男がおもちゃを与えている子供を保護した。
(222') は外在関係節に書き換えられない。だとすると、内在節の文法性が高まることはないのか?
(220)など。「不審な」「しようとしている」等を入れて改善するとしたら、主部内在節に関する語用論的制約の考察が必要。

p. 90, l.2
「談話文法」とはどういう意味か?